2017年8月21日 (月)

8月20日主日礼拝

日照時間が足りない、珍しい8月となりました。
ネギが2倍の高値となっているそうで。
トランプ政権ガタガタ?
アメリカと北朝鮮との緊張、少し和らぐか・・
このときときとばかり、戦争の準備をどんどん進めてしまう政府・・
なんとも落ち着かない日々です。
そんな慌ただしい日常の中で、あるいはそこから離れて
静かなる礼拝の時をもって自分を見つめる。
とても大事なことだと思います。
礼拝の中で、聖書のおはなしがあります。
それは、つまるところ、イエス・キリストのおはなしです。
特に、それはイエス・キリストの十字架のお話です。
そのことを、教会では繰り返し、繰り返し、お話する。そして、それを集う人は、
繰り返し耳にする。
 
面白いのか?面白いのかというとそうでもないかもしれません。
ためになるのか?というと、それほどすぐにためのなることでないかもしれません。
ありがたいお話なのか、そけほどありがたいということでもないかもしれません。
じゃなんで、みんな教会に行くの?なんで、繰り返し、キリストの十字架の話をありがたそうに
聞くのか?ありがたくないようで、やっぱりありがたいのです。面白くないようで本当に、面白
 
いのです。
この話を聞くと、神の前で、自分の罪が明らかにされて、神のみ前に悔い改めが起こります。
それは、ただの反省とは違います。人生の方向転換がそこで起こります。
すぐに、180度生き方が変わるということにはならないかもしれません。
でも、微調整として、少しずつ変化していくのです。
この生き方が変わるということが素晴らしいのです。
みなさん、この世の中で、自分自身を本当に冷静に客観的に見つめるということが
できますか。自分に都合のよいようにということではなくです。
また、自分の生き方が変わるということがありますか?それがここにはあるのです。
すばらしいと思いませんか?
どうぞ教会に来てみてください。
聖書  コリントの信徒への手紙(1)1:10-17
説教  「一つになるために」
 

2017年8月16日 (水)

8月13日主日礼拝

この日とうより、その前日、あることに気づきました。
 
それは、教会の敷地内に立っているビワの木が枯れたことに気づいたことでした。
2010年にこの敷地を購入する以前から立っていたビワの木です。
毎年というわけではありませんでしたが、それなりにたくさんの実りがあって、
教会の皆さん、わたしたちを楽しませてくれました。
それが、この年に突然、枯れてしまうなんて。
そういえば、今年は、小ぶりですが、たくさん実らせ、わたしたちと鳥たちを楽しませてくれまし
 
た。あれは最後の力を振り絞ってのことだったのだと、思わされます。
そして、なにかガテンがいくのです。
今年度は、牧師が辞任して、来年度新しい教師を招聘しようとしています。
 
それと重なっているのだ!
そういうことなのだ!
と納得がいくのです。
やがて新しい時代がやってくる!
そのことも、希望として与えられています。
今年度は、しるしとして、何かの樹を植えるというのもよいかもしれません。
千葉北総教会は、ここから新しく出発いたします。
13日の礼拝
聖書は詩編90:1-17、ルカ24:28-29
説教「わたしたちの宿るところ」
 

2017年8月 7日 (月)

8:月6日平和聖日礼拝

聖書朗読  ルカによる福音書2:1-20(p102) 

説  教 「平和の君を探せ!

「2017.8.6.docx」をダウンロード

 礼拝後 平和祈祷会をしました。

 牧師が発題し、祈祷会

 その後 すいとん をいただきました。

 

「戦時下の日本基督教団について」 

 

 2017.8.6 平和聖日にて 千葉北総教会 牧師 大串眞

 

わたしたちの千葉北総教会が属している「日本基督教団」とは、どんな教団であると皆さんは思われるでしょうか?

 

 わたしは小さい頃から、この教団の教会に属して過ごしていました。この「日本基督教団」というキリスト教の教団を表現するのに、どういう言葉を周りの大人の人達から聞いていたかというと、「カトリックとプロテスタントのどちらかというとプロテスタント」、そして「プロテスタントの中で、一番教会数の多い教団」、「だから、一番正統的というか、メジャーというか」、「まあ、とにかく、一番いい教団なんだ」というような感じの言葉を多く聞きました。教会数は、約1700教会で、確かに、日本のプロテスタント教会では最大の教団です。でも、数が多ければ、正しかったり、立場的に有利であったり、安心か?そういうことでもないことを、大人になっていくとわかってくるものです。

 

 この教団は、どんな教団であるか、特に、歴史的に、どんな経緯で始まったのか、それを一番、よく理解できるのは、この教団の教憲の文章を見るとよいかもしれません。

 

教憲の文章を資料として付けました。そのアンダーラインのあるところをご覧ください。

 

「わが国における三十余派の福音主義教会およびその他の伝統を持つ教会は、それぞれ分立して存在していたが、1941(昭和16)6月24日くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った。かくして成立したのが日本基督教団である。」この「摂理」というのは、神様のみえない導きという意味です。伝統の違いという点ではバラつきのあったプロテスタント諸派が、神様の見えない御手の導き、つまり摂理によって、合同教会となったというのが、わたしたちの教団を語るうえでは、根本の、信仰的な理解といってよいと思います。しかし、この1年前の1940年という時は、神武天皇以来皇紀(こうき)2600年の祝賀会のあった年でした。つまり、天皇を神とする日本の国体が特別に強固にされた時です。1939年に第二次世界大戦がはじまります。194112月に太平洋戦争がはじまります。19414月に、宗教団体法によって、プロテスタント教会が一つされた。国の力によってできた。それが、実は、日本基督教団のもう一つの姿だったのです。そのことについて、戦後に、戦争を反省し、悔い改めを信仰告白の形であらわした、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を見てみましょう。これは、鈴木正久議長の名であらわされました。この文書の中に、神の摂理によって合同した、日本基督教団という面と、国の統治の方策として、また、その協力という意味もあって、日本基督教団が成立したことがよくあらわされています。

 

 この文書の中段以降に、戦時下における日本基督教団とその諸教会において、戦争に反対したり、抵抗したり、警鐘を鳴らし、見張りの役割という本来の教会の使命を果たさず、むしろ、戦争に加担し、戦勝を祈り、戦争によって犠牲となった人々を見捨てた罪を犯したことを表現しています。どのような協力をしたかというと、具体的には、君が代斉唱、宮城遙拝(きゅうじょうようはい)という仕方で皇居に向かって拝礼します。教育勅語奉読、皇軍兵士のための祈りなどがなされました。国家神道は、習俗であるから、君が代斉唱、宮城遙拝、神社参拝は、神礼拝でないとして、国体に合わせるという形をとったのですが、それはいわば、存続のための妥協ということだったといえましょう。わたしたちは当時の人々をさばくことはできませんが、やはり、実際上天皇を神としてしまう国に抵抗できなかった弱さであったということは否めないでしょう。教団の教師の中で、ホーリネス系の6部、9部と呼ばれる教師達134名は、憲兵に検挙され、10名が1-4年の懲役、拘留中4名が病死、保釈後3名が病死しました。また、日本の占領下にあった朝鮮の基督教の牧師たちが、君が代斉唱、宮城遙拝、神社参拝は偶像礼拝と反対し、拷問を受けるなどして獄中死を遂げています。約50名の朝鮮人牧師でした。その抵抗した人々を、教団としては擁護するのではなく、むしろ、非難し、見捨てたといいます。

 

 そして、戦責告白には、アジアの国々、インドネシア諸島にまで及ぶ、侵略や、虐待などの罪に対しても懺悔しています。

 

 この「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」は、教団が一致して、教団名で出すことはできず、鈴木正久という議長名で出された文書です。そういう意味では、いろいろと議論としては、戦後をどう振り返るかという課題はあるのでしょう。しかし、はっきりとしていることは、二度と、戦争を起こしてはいけない。NO WARということでしょう。わたしは、日本基督教団の教会の牧師として、戦争に加担しも抵抗すべきところを抵抗できなかったという特別な過去の歴史を背負っていると思うのです。その過去の歴史に真摯に向き合うならば、やはり、過去の罪をわたしの罪でもあると神のみ前で悔い改めて、わたしなりの戦争責任告白をするということではないかと思います。そして、それはただ心で念じて終わりではなくて、言うべき時には、戦争に加担していく動きについては、NOと言い、抵抗すべきではないかと思っています。現在、憲法9条をめぐって、いろいろと議論のあるところでもあるかと思います。実質的な軍隊を持って、戦争のできる国となって国を護るのか、武器を取らずに平和の道を取るのか、結局はこの2つに一つの道なのかと思いますが、主イエスに従う道は、後者であり、聖書的な信仰も後者とわたしは信じてやみません。そして、その道は、新約聖書の信仰だけでなく、旧約聖書のイスラエルの目指していた信仰でもあります。現在のイスラエル建国におけるシオニズムに立つ人々は、旧約聖書をよく読んでいないということではないかとさえ、思っています。

 

 もう少しつっこんだことについては、9条の会で、印西市民の方々に述べた文書を付けておきました。印西の地元の方々には、牧師が語り、そのことを教会の人たちは、知らないということでは証しにはならないと思いました。いろいろとご批判もあるかもしれませんが、これも読んでみてください。最後に聖書を読んで終わります。

 

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる。」マタイ26:52

 

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」イザヤ2:4

 

共に祈りましょう。  

 

 

 

 

7:月30日主日礼拝

聖  書  コリント()1:1-9 

     -コリントの信徒への手紙講解説教― 

説教  「恵みの視点から考えよう」

  「2017.7.30.docx」をダウンロード

説教より一言

  

「恵みの視点から考えよう」コリント()1:1-9

パウロは、処世術として、言葉だけとしてそれを言っているのではないですね。本当に、恵みに立って、パウロ自身も、恵みに生かされている者として、語っているのですね。ここには、温かい神様の視線があります。神様がイエス様の十字架を通して、赦し、生かし、愛してくださっている、神様の恵みが溢れています。そういうところから、いろいろな問題を考えていこう。この恵みに照らして、悔い改めが必要なところは、整えていこう。この恵みの視点から、期待して、前に向かって歩もうとしています。

 わたしは特に、「神は真実な方です。」に救われる気持ちがします。わたしたちは、問題だらけ。いろいろとダメだなあと思われるところがあったとしても、神様は真実な方です。この神様がわたしをガチっと捕らえてくださっていますから、この神様が、最後の最後まで、お見捨てにならずに、わたしと共に歩んでくださるから、「あっ大丈夫なんだな」と思うんです。あたたかい視線の中で、大きな愛の視線の中で、「あっわたしは大丈夫」なんだと、救われるのです。

 

2017年7月24日 (月)

7月23日賛美礼拝

この日は、こどもたちと合同礼拝、賛美については、子どもさんびかからは、「みんなで平和を」、。
リビングプレイズより、「鹿のように」を歌いました。
ヨブ記1:21-22
「どこから来て、どこに帰るのか」
礼拝後は、お茶の会
初めての方も、この時に打ち解けることができます。
一週間に一度の交わりですが、互に声を掛け合う貴重な時となっています。
その後、牧師は、北総分区の会合があって、1時間かけて移動。会議後、また帰ってきて夕拝。さすがに疲れました。
ところで、17日に行われた印西ゴスペルカフェには、約130名の方が教会に集い、ゴスペルを楽しみました。ゴスペルを通して、ゴスペルがあらわしている福音に少しでも触れていただく時となったこと、感謝しています。
この後の夏の行事についても少し触れておきます。
1、8月6日(日)は、平和聖日礼拝、礼拝のメッセージが平和についての私信であるのと同時  に、礼拝後は、「戦時下の日本基督教団」について牧師が報告し、平和祈祷会を持ちます。
2、8月26日(土)午後5時から、子どもの教会の夕涼み会をします。
3、8/26に企画していた、第2回インターナショナル交流会は、9月23日(土)午後5-8時に変更します。
暑い夏は続きます。夏バテしないように、睡眠と栄養をよくとってご自愛ください。
 

7月16日主日礼拝

ルカ1:46-56
「聖なる逆転はある。

説教より一言 

先週、わたしは、埼玉地区の教師研修会で、お話をさせていただきました。前任地の高知県での19年間、そして、千葉での12年間、いずれも、開拓伝道が導かれてきたことの証しでした。しかし、これらは、結局、弱いからこそ導かれたという話でした。決して手柄を自慢するということではありませんでした。成功談ではなく、失敗談の宝でした。失敗ならいくらでもネタがあるからです。失敗に次ぐ失敗、しくじり、そんなことで、窮地に追い込まれたり、恥をかいたり、どうしようもなく行き詰まるのです。しかし、そんな弱さの中で、かえって、神様の恵みがあらわされて歩みが導かれてきました。不思議なことです。

閉会礼拝の中で、あるベテランの牧師が、説教をされました。牧師は、失敗の連続、これでか、これでもかと、失敗を繰り返す。でも、だからこそ、神様の生きたみ言葉が、そのような中で、響いてきて、このような者でも赦されている。このような者でも救われている。このような者でも愛されている。そして、このような者を見捨てないで、期待をかけてくださっている。牧師は、自分の身でもって、神様の恵みを証しをしていくことになる。こんなに素晴らしいことはない。牧師という務めは、こんなにありがたい。とメッセージをもって締めくくってくださいました。

みなさん、これは牧師のことだけではありませんよ。クリスチャンというのは、このような、聖なる逆転に生きる者です。失敗したり、行き詰ったりするところで、わたしたちは、それを祈りのうちにイエス様のところにもっていくことができます。持っていくことができるというのが、わたしたちの恵みです。一般的には、こういう場合、持っていきようがないのです。持っていく相手がいないのです。だから自分でため込むしかない。自分で処理するしかない。自分で頑張るしかないのです。でも、わたしたちは、弱い時にそのまま、神様に持っていく。すると、瞬間的に、神の愛の顧みの眼を感じるのです。主イエス・キリストの名によって祈る。そこに、イエス・キリストのゆえに、聖なる逆転に与る。

わたしたちは、今日から、逆転の恵みに与りましょう。小さいからこそ、大きな神の恵みによって、新しく歩んで参りましょう。

7月9日主日礼拝

ローマ8:31-39
「神が味方となってくだされば」
説教より一言「神が味方となってくだされば」ローマ8:31-39

神様の愛が注がれているという1点が、わたしたちの立脚点です。神様の愛は、わたしたちにおいて溢れ出して、わたしたちの敵というすべての現実に対する勝利としてあらわされることになっているという。それは、わたしたちがすべての問題に対して、負けないでいるということでありましょう。また、すべての問題に対して、向き合って戦うということでしょう。そして、忍耐してやり通すということでしょう。そして、その勝利は結果としてのvictoryという意味よりも、課程プロセスとしてのovercomeです。つまり、克服するということです。また、セルフコントロールが効くということではないかと思います。わたしたちはいろんな問題に、翻弄され、いやいやながらそれをすることになります。いやいやながらするのは、不自由です。人間性が破壊されます。しかし、神様の愛が注がれてきて、わたしたちに力が注がれていきますと、わたしたちは、それを自制して、自分から、コントロールしていきます。周りからコントロールされるのは、隷属関係です。でも、自主的に、わたしたちの側から、コントロールしていく。もっと言うと、愛をもってわたしたちも対処していくようになる。それが、わたしたちの克服という勝利の過程です。

 

 

2017年7月 6日 (木)

7月2日聖餐礼拝

7月に入りまして、西日本を中心に梅雨前線による激しい雨が降っています。
千葉県は、それほどもありません。
これは、6日木曜日に書いていますが、九州で甚大なる被害が出ているとのニュースを知って驚いています。被害の中にある方がたとその地域が守られるように祈ります。
さて、主日礼拝はいつものように恵まれました。
なんというのでしょうねえ。梅雨の晴れ間に爽やかな風が吹きふけるかのような
時を持つことがゆるされています。礼拝を共に過ごし、御言葉を聞き、祈り、賛美をし
礼拝後は、1週間ぶりの人と再会し、消息を確かめあう、そんなことを通して、終わってみると
それまでか抱え込んでいた重荷がすーと楽になっている。軽くなっているし、新しく歩んて行く勇気と活力をいただいている。毎週、毎週このような、癒しをいただき、パワーをいただく、そんな場を神様は地上に与えてくださっているのです。
今回も千葉英和の高校たちも複数出席してくださっている。そういう高校生たちと対話をするように一緒に御言葉を聞いている。
聖書は、ローマ8:28-30
説教「万事は益となる」
ここのところ連日で、草取り、草刈に没頭している。
敷地が広いことはありがたいが、何しろ管理がたいへんだ。
でも、草刈り機と、人力でなんとかかんとか、きれいになると
心もまた、清々しくなった。
これは、お茶の心だなと思う。
「もてなす心」で、教会を整備し、きれいに整える。
それで、教会に訪れる人も清々しくなる。
これは無言の世界なのだが、その空気感がいいのだ。
言葉以前の言葉だ。
牧師室が、茶の心がなく、机の上がもう騒然としているのだが・・
 

2017年6月29日 (木)

6月25日賛美礼拝(千葉支区の日、子どもの教会と合同礼拝)

この日は、いろんな意味での礼拝をささげました。表題に書ききれなかったのは、教会リトリートとしても、礼拝をささげておりました。礼拝後、ミニ講演を重ね、午後2:30までのプログラムで過ごしました。
主題は「真の豊かさに生きるためーよりよい教会生活をめざしてー」ということで、礼拝、祈祷、聖書、献金、など、教会生活の一つ一つを取り上げて、確認しました。
特に、これらのことを、わたしたちの願いを実現するためにするというよりも、むしろ、神様がわたしたちに求めておられること、招かれていることということに焦点を当てて考え、話し合い、祈りました。
実は、千葉北総教会は、こういうことを丁寧に学んだり、話し合ったりすることは、今まであまりなかったのです。開拓伝道で常に大きな目標に向かって動いていましたから、ようやく落ち着いて自分たちの信仰生活を見つめる時がやってきたということです。
今までは開拓伝道の時期、これからは、教会形成の時期、その変わり目にあるリトリートでありました。
実は、今年度末で教師の交代を予定しています。
千葉北総教会の第二ステップがここから始まろうとしているということでしょう。
さて、この日は、千葉英和の高校生さんたちもたくさん出席されました。12名の出席で、礼拝全体は60名となりました。なんともにき゜やかな、恵まれた礼拝でした。
教会の庭にはびわの木があります。人間の側は、もう教会の皆さんと分かち合って堪能したのですが、残りは、ヒヨドリ、ムクドリたちが毎日のように群がって来て、集会をしています。これもまた感謝なことです。
聖書 コリント(Ⅱ)8:9
「本当の豊かさとは何か」
 
 

2017年6月22日 (木)

6月18日主日礼拝

前日の17日(土)インターナショナル交流会が教会を会場に行われました。
22名の出席、9か国の人々の参加がありました。ジャマイカ、タイ、韓国、中国、ロシア、イラク、ペルー、アメリカ、日本です。
地元の日本語学校など、広く呼びかけました。
牧師の簡単な挨拶の後、タイ式のバーベキューを楽しみました。いろんな国の言葉が飛び交っていました。このようなコミュニテイが、教会で行われる。外国では普通のことなんでしょうが、日本ではまだまだです。当教会は、教会に行けば、コミュニテイがある。まず教会に行こう!というようなコミュニテイチャーチとなることを目指しています。
礼拝は、コヘレトの言葉からの連続メッセージは最終回となりました。
コヘレト12:9-14  「宗教はなぜ必要か」

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